近くの歴史散歩道 文:小田昭午(犬山市)
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(11)不老の滝と昭和天皇の記念碑
飛騨街道を北上し寂光院の参道入口を過ぎたあたり、右側少し薄暗い木立の中に滝があります。不老の滝です。それ程大きな滝ではありませんが、市内では八曽の滝と並ぶ名滝です。
滝を過ぎてさらに上流へ数十メートル歩くと右手の山へ登る道があり、「大平山遊歩道」の道標が立っています。
そもそもここは大平林道の入口で、夏でも涼しい木立の中を行くと石原で木曽街道『本シリーズ(8)参照』に合流します。
大平林道が整備されたのは比較的新しく、明治になってからです。当時の可児郡の郡長をしていた神谷という人が大平林道を中山道のバイパスにしようとしたのです。
当時中山道はほぼ今の国道21号線に沿って上流に進み美濃太田で木曽川を渡っていました。
これに対しバイパスは鵜沼の宝積寺からこちら継鹿尾へ渡り、大平林道を通って木曽街道に合流し、伏見で中山道に入ると言うコースです。バイパスで道程が3q程短縮されましたが、なぜか余り利用されなかったようです。
不老の滝の少し下流に不老公園があります。秋の紅葉の素晴らしい所です。公園の下に名古屋市上水の取水口があります。名古屋市民の飲み水はここから地下道を使って犬山城の前を通り、武道館の下のポンプ圧送所から名古屋市の方へ送られています。
少し犬山橋の方へ歩いてみましょう。氷室という名の交差点があります。氷室は冬作った天然の氷を夏まで蓄えておく倉庫または穴のことです。この辺りに氷室があったのでしょう。
上流の可児市土田公園の中にも昔、天然の氷を作っていたと言われる浅い長方形の池が並んでいます。そこで作った氷をここで、貯蔵していたのかも知れません。
ここからさらに300m程行きますと岩山が木曽川へ突出していて、その岩山を削った断崖の下を通ります。
崖が崩れないように厚いコンクリートの壁が巡らせてあります。そのコンクリートの壁に隠れるようにして一本の記念碑が立っています。殆どの人は気付かずに通り過ぎて行きます。
正面に「今上陛下御探勝聖跡」『にしき渓』と刻んであります。昭和2年11月愛知県で陸軍の特別大演習が行われました。演習終了後昭和天皇が犬山を訪れ、愛馬「錦渓」に跨って木曽川の河畔を散策されたことを標した記念碑なのです。右側面には「聖跡を後昆(注:後の世)に伝う。犬山町長 原田鉄藏」と書かれています。

  昭和天皇のご来訪記念碑

(12)稲置街道と羽黒城下町
いよいよ話は稲置街道に入ります。
江戸幕府ができ、名古屋城が築城され、尾張の中心地が清洲から名古屋へ移りますと犬山城と名古屋城を結ぶ道路の重要性が増してきました。稲置街道はそういう目的で整備されたメインストリートです。犬山口から楽田追分(本シリーズ(5)参照)までの両側に松並木の並ぶ賑やかな街道だったようです。
名古屋から来ますと楽田追分の三さ路で木曽街道と別れ、道を北西に取って羽黒に入ります。
蝉屋と言う信号のある交差点の百メートルほど北で稲置街道は県道27号線に合流します。今日は車を摺墨公園の駐車場に置いて歩いて見ることにしましょう。
公園の中に磨墨塚があります。「磨墨」は源頼朝の愛馬で、頼朝から家臣梶原景時に与えられた名馬の名前です。頼朝の死後、鎌倉幕府内の内紛により景時は幕府を追放され、子供ら肉親と郎党ことごとく無残な最期を遂げました。
ただ、幼かった孫の豊丸と乳母のお隅は家来十数人に守られて、磨墨と共に羽黒にたどり着いたのでした。羽黒はお隅の生まれ故郷だったのです。
磨墨塚はこのような伝承に基づく馬のお墓なのです。
その後、豊丸は成人して梶原景親を名乗り、羽黒城を築いたと伝えられています。当時の城は今、私たちが想像する城とは異なり、「城館」と言われ、大きな民家を少し頑丈にした程度の物だったと思われます。
このように羽黒には梶原一族にまつわる伝承が沢山あります。まだ、史実と見なすことはできませんが、羽黒がかなり古くから栄えたところだったことは確かなようです。
地名を拾ってみましょう。
興禅寺や羽黒城屋敷古墳の辺りは「城屋敷」と言う地名です。この城屋敷を「古市場」「下市場」「二日町」など市場があったことを窺がわせる地名や「川原町」「鳳町」「八幡町」「余町」など町の付いた地名が囲んでいます。
「余町」は「夜町」の当て字で夜にぎわった町のことです。「堂前」は「寺町」のことでしょうか。
羽黒の町を歩いてみると古い古い城下町の香りが漂ってきます。道幅は狭く、曲がりくねっていて城屋敷を中心にして、自然発生的にできた城下町の様相を感じます。犬山城の城下町より遥かに古いことが感じ取れます。
古くから都市としての働きを備えていた羽黒は中世の、この地域における中心地では無かっただろうかと思われます。

旧41号線(昔の稲置街道) 羽黒駅付近拡巾前

13)銅の鋳物を造っていた金屋
 今日は五条川が旧41号線を横切る羽黒橋から川沿いの道を下ってみることにしましょう。お彼岸の頃には両岸の堤の斜面が赤い“まんじゅしゃげ”で覆われていました。このかけはしがお手元に届く頃には桜並木が明るく紅葉し始めていることでしょう。
10分も歩きますと半ノ木川との合流点に達します。この川は味鹿の信号のすぐ南を流れている半ノ木川の下流です。
二つの川に挟まれた辺りの地名を金屋と言います。4階建ての金屋団地が目印です。
この一帯に昔々中世のころ、青銅で梵鐘や仏像などの鋳物を造っていた鋳物師(「いもじ」と読みます)たちの町があったのです。
「金屋」という地名がそれを物語っています。しかし今ここに、その面影を見ることはできません。
ここで製造された、現存する最も古い梵鐘が一宮市の妙興寺にあります。白壁に包まれた2階建ての美しい鐘楼の中でした。2階の壁には窓がありますが、外からは良く見えません。住職にお願いすれば快く中へ入れてくれます。
鐘には銘文が刻まれていて、最後に「大工羽黒新兵衛尉」とあります。大工は職人の長のことです。製造された年は永和2年。西暦でいえば1376年に当たりますので、南北朝時代です。
当時、青銅の鋳物と言えば河内(今の大阪府)や大和(奈良県)が生産地でした。その頃、羽黒が一つの生産拠点であったと言うことは驚きであると同時に、私たちの誇りです。
五条川が原材料や製品の輸送に役立ったでしょうし、川の砂が鋳物砂として鋳型を造るのに使われたことも想像できます。今の五条川は灌漑と治水のために郷瀬川や薬師川に水を分けていますが、当時は水量も多く、また堤防がありませんでしたので川幅もかなり広い川だったと思われます。
さて、信号機に「上大日」と書かれた交差点を回って帰ることにしましょう。昔この付近に大日如来を本尊とする万願寺と言う大きなお寺があったと大口村古事記と言う史料にあります。「大日」と言う地名の由来はこの大日如来ではないでしょうか。
前号で羽黒の城下町に触れましたが、この城下町には梵鐘や仏像を造る鋳物師たちの町があったのです。羽黒がこれら鋳物師集団を受け入れる高い文化を持った町であったことを意味します。
最も驚かされるのは鋳物師集団を招き、「もの造り」に挑戦した企業家がいたと言うことです。織田信長の現れる200年も前の話です。


妙興寺の梵鐘
坂野健三氏撮影

(14)キリスト教徒殉教の地
稲置街道は羽黒を過ぎて五郎丸に入ります。
「五郎丸」という地名については人の名ではないか、いや、船の名前だろう、など諸説あります。
江戸時代に書かれた「尾張国地名考」と言う史料によりますと、「丸は輪と同じで、曲輪(くるわ)のことである。五郎という名の曲輪である。」曲輪は城や砦を土塀などで囲った1区画のことです。昔、豪族の屋敷でもあったのでしょうか。
「万願寺」という三叉路で稲置街道は旧41号線と分かれます。三叉路の鋭角の角の近くにお稲荷様があり、その中に二つの小さな祠と碑が立っています。
この高さ1メートルほどの屋根のある碑には「諸神諸仏諸菩薩」と刻まれています。この付近のキリスト教徒(切支丹(キリシタン)と呼びました)弾圧による殉教者の供養塔です。
犬山市・扶桑町など尾張北部には近世の初め、キリスト教の信仰が広まりました。従ってそれだけ、徳川幕府によるキリスト教徒弾圧の犠牲者が多かったのです。
この地への弾圧は寛文元年(西暦1661年)、美濃国の塩村・帷子村(今の可児市)の検挙が口火となり、ただちに五郎丸村に飛び火しました。
その時、五郎丸村では35人が召し捕らえられ、その後の7年間に124人が捕らえられました。許されて釈放された僅かな人を除いて処刑されたか、獄死しました。
当時の五郎丸村の人口が205人と記されていますので約半数の人が殉教したことになります。それから20年余りの後の元禄3年の人口が96人と記録されていますので、村は壊滅状態であったことが解ります。
当時の尾張藩主徳川光友はキリスト教に寛大であったと伝えられています。幕府の強い圧力に屈したものと思われます。
名古屋の千本松原という刑場跡に、殉教者の菩提(ぼだい)のためにお寺を建て、供養しています。東別院の北西にあたる栄国寺がそれです。本尊の阿弥陀如来は当時、塔野地村の薬師寺から移した藩内でも最大級の仏像でした。今年の8月愛知県の重要文化財に指定されました。
交差点の信号にも書いてありますように「万願寺」という地名が残っています。この万願寺は取締の行われる前の慶長年間、まだキリスト教弾圧のそれほど厳しくなかった頃建てられた伝道所「満願寺」に由来します。
伝道所満願寺は弾圧と共に跡形もなく壊されてしまいました。今回は悲しい話になってしまいました。


キリスト教殉教者の供養塔


(15)七堂伽藍のあった里 塔野地
先月「今回、県の重要文化財に指定された、名古屋栄国寺の本尊である阿弥陀如来坐像は昔、塔野地村の薬師寺から移した仏像でした」と書きました所、「その薬師寺は塔野地のどこにあったのか」とのお問合せをいただきました。
 昔むかし、塔野地には荘厳な七堂伽藍があったと言う話はよく聞きます。尾張国地名考にも「塔野地は伽藍の地なるべし」と書いてあります。
「塔野地縁起」という資料によりますと、昔、この地に東野寺と言う大きな寺がありましたが、比叡山延暦寺の僧の騒乱をきっかけとした信長の寺院焼討ちに会い、破壊されてしまいました。
 古老に聞きますと、その東野寺は字西中ノ切(昔は寺山と言いました)にありました。塔野地公民館や宗栄寺のある字です。
 41号線、塔野地の交差点を富岡駅へ向かい、河村鉱油さんを過ぎた左側の角に小さな祠があります。三体のお地蔵さまが正面に、祠の奥と前に五輪塔などが十数基並んでいます。
 右側の碑の説明によりますと、この北200メートル程の所で用水工事中に発見されたお地蔵さまや五輪塔で、この地に寺院のあったことを示すものだといっています。
 塔野地の路傍にはこの様なお地蔵さまが所々に祀ってあります。通り過ぎてしまいましたが、杉のタバコ屋さんの角を西へ40メートル程行った右側に三十数体のお地蔵さんが並んでいます。三十三所観音と言いまして、ここへお参りすれば西国三十三ヶ所を巡ったと同じ御利益があるそうです。
 その左に馬頭観音が立っています。この馬頭観音は天明4年(1784)と刻まれていますから比較的新しいのですが、台になっている石は五重塔の礎石の一つだったと言われています。塔野地には五重塔もあったようです。
 この道を更に西へ進み、赤の点滅信号を右折しますとすぐ、左側に青木公園があります。このあたりを字山王と言います。公園の中に「旧跡山王大権現」の碑があります。その由来書きによりますと、ここは比叡山延暦寺の別院薬師寺と坂本の日吉神社から分社した山王権現のあった所です。壮大な伽藍は信長に焼かれましたが、阿弥陀さまだけはかろうじて残り、寛文6年栄国寺に移されたとあります。
 昔は神さまと仏さまが仲良く同居していましたので、山王権現の中に薬師寺があったのでしょう。
 塔野地は東野寺(字西中の切)と山王権現(字山王)の二つの荘厳な伽藍が美しさを競っていたと想像しています。


五重塔の礎石の上に立つ馬頭観音


(16)東山道の木曽川渡河
 歴史散歩道も新しい年を迎えて、いよいよ東山道に入ります。
 東山道は古代七道の一つで都を出発し、中部・関東・東北の山地、つまり日本の背骨にあたる中央線を貫く縦貫道路です。
 説明が道路から入りましたが、そもそも上記地域を包む行政区画のことでした。ここでは道路と考えておきましょう。東海道は親戚です。
 晴れた日に犬山遊園駅から善光寺山の展望台に登ってみることしましょう。眼下の木曽川の存在感に圧倒されます。犬山橋、ライン大橋を潜り伊木山にぶつかるこの辺り、東山道が美濃から尾張へ木曽川を渡った所です。
 ライン大橋の北詰の少し北に大きな「かやの木」が見えます。正方寺の境内に立っている市の天然記念物です。この辺りを東山道が通っていたとされています。
 ここから西の方、一面に「にんじん畑」が広がっています。この平地は昔、沼だったそうです。鵜沼と言う地名がそれを物語っています。「にんじん畑」の西の縁は段差20m程の崖が南北に走っています。崖の向うは各務原台地です。遠くから見ますと竹薮が崖に沿って南北に並んでいます。
 名鉄電車が台地に駆け登る位置から南へ200m程の所に斜めに崖を登っている道があります。嫁振坂と呼ばれています。東山道はこの坂を登り、加納・大垣を経て関ヶ原へと向かいました。「かやの木」の正法寺から西北西の方向になります。
 一方、正法寺から木曽川を上流に進みますと鵜沼南町になります。内田の渡しの鵜沼側です。
 内田の渡しは東山道の渡しでしたから軍事的にも経済的にも重要な渡しでした。
 岐阜城にいた織田信長が甲斐(山梨県)の武田勝頼を攻めた時や後の二代将軍、徳川秀忠が遅れて関ヶ原の戦いに馳せ参じた時など、大軍がこの内田の渡しを渡っています。
 江戸時代に入りますと、尾張藩の美濃支配、木曽川支配のために内田の渡しは益々重要性を増して来ます。内田の渡しは尾張藩の藩営の渡しでした。面白い制度なので、次回その一端を紹介してみましょう。
 正法寺から真南に川へ下りた辺り、ライン大橋の少し下流にも渡しがあったようです。後に江戸時代になって鵜飼屋の渡しと言われた渡しです。この渡しを渡った旅人は三光寺山や白山山(犬山城のある山をこう呼びました)の南をまわって、余坂の付近で内田の渡しを渡った人たちと合流し、善師野を通って東へ向かいました。


正法寺境内に立つ「かやの老木」


(17)内田の渡しの風景
 東山道は内田で木曽川を渡りました。内田の渡しと言います。今日は犬山橋の上に立って、昔の内田の渡しを想像していただこうと思います。
 内田の渡しの位置は犬山橋から名鉄犬山ホテルの前辺りまでの間を移動していたようです。洪水がありますと両岸の地形が変わってしまい、舟つき場に適した岸が移動するからです。
 今では両岸がコンクリートで固められていますが、明治末頃の写真を見ますと土を盛った堤に松並木が日本ラインの名に相応しい風情を添えています。
 昭和三十七年のライン大橋の建設以降急速にコンクリートの木曽川に変貌して行ったようです。
  江戸時代の内田の渡しは尾張藩の藩営の渡しでした。木曽の山林は尾張藩の物でしたし、木曽檜を筏にして運搬するために木曽川の管理も尾張藩に任されていました。また、美濃の国には尾張藩の領地が随分ありましたので、内田の渡しは尾張藩が管理していたのです。
船頭は総勢八人、二十四時間態勢で岸に待機していました。河原に掘っ立て小屋でも立て、キセルで煙草をくゆらせながら客を待っていたのでしょう。
  船頭八人に対し、年間米八石の船頭給が支払われ、渡し舟一艘が支給されていました。
 大人一人一年間に一石八斗(十斗で一石)の米を食べたと言われますので、これだけでは食べていかれませんが、他に渡し賃の徴収が認められていました。
 人、馬、荷車毎に渡し賃が決められていたのは当然ですが、きめの細かい渡し賃の例を一つ。荷物を背負ったままなら人一人の渡し賃ですが、荷物を舟に下ろすと更に荷物代を取られました。
 当時の旅人の姿を知る例としては、両掛(天秤棒の前後に荷物をぶらさげる)や長持(長さ一間程の布団などの寝具を入れる大きな木製の箱)の渡し賃が決められていました。
 なお、武士と僧侶は無料でした。
 最後にニヤリとするお話を紹介しておきましょう。
 船頭に達せられた「心得」の中に、次のようなのがありました。
・水かさが増えたときや夜であっても、渡し賃の他に酒代などの無心を乞うべからず。
・夜、舟の中などにおいて旅の婦人に対し、みだりがましき義あるべからず。
 犬山橋の南、名鉄電車の線路の東側に江戸時代に立てられた常夜灯があります。内田の渡しを知る唯一の文化財です。

内田の渡しの常夜灯

(18)犬山橋誕生こぼれ話

 初めて犬山と鵜沼の間に橋ができたのは大正十四年でしたが、それまでには多くの人々の夢と汗が流されてきました。
 神戸と京都間を汽車が走ったのは明治九年ですが、その後鉄道は東へ東へと延び、ついに大垣に達しました。当時日本を縦貫する鉄道は東山道沿いに計画されていましたから岐阜を経て木曽川沿いを走り、木曽谷を抜けて碓氷峠を越え、東京に至るコースでした。
 つまり、日本縦貫鉄道は犬山か鵜沼を通るはずでした。しかし、大垣まで来たところで、なんと計画が変更されてしまったのです。岐阜からほぼ直角に折れて名古屋へ向かい、東山道線は東海道線に変わってしまいました。
 犬山は日本縦貫鉄道から見放され、木曽川に橋を架ける最初のチャンスを逃したのです。明治十九年のことです。
 犬山にも豪快な人がおりました。私費で木曽川に橋を架けようとした人がいたのです。犬山町の土岐為吉と鵜沼村の大竹藤之助の二人です。
 
明治二十七年、愛知・岐阜両県知事に対し、「私費架橋および橋賃徴収御認許願」を提出しています。橋の建設とそれを渡る人や荷車から通行料を徴収したいので認めて欲しいと言うものです。
 今で言う民活事業です。多くの人の協力を得て、周到に準備された計画でしたが、どうしたわけかこの願書に対し許可がおりませんでした。
 その後、両岸の町村長や町村議会をはじめ多くの人々が架橋に向けて情熱を注ぎますが遂に明治期に橋を見ることはありませんでした。
 大正元年には名鉄電車が犬山まで来ました。飛騨鉄道(今の高山線)も着々と進み、大正十年には岐阜−美濃太田間が開通します。
 周囲の鉄道網が整備されていく中で犬山橋だけが取り残されていました。そのような中で大正十一年、名鉄が犬山線を鵜沼まで延長する計画を提案しました。
 名鉄・愛知県・岐阜県・国が協議した結果、名鉄が橋梁建設費の三分の一を負担することで建設が始められました。
 愛知県議会に提出された報告書を見ますと、岐阜県は最後までこの橋の建設に反対でした。従って橋梁建設費を全く負担していません。橋が建設されると東美濃や飛騨の経済圏が名古屋に奪われてしまうと言うものでした。
 そんな歴史を背負って孤軍奮闘してきた犬山橋も、一昨年新犬山橋が誕生し、電車専用の橋に生まれ変わりました。思わず「高齢者ガンバレ」と念じてしまうのです。

懐かしい頃の犬山橋

(19)瑞泉寺界隈の静かな道

 内田の渡しで尾張の国に入った東山道は犬山遊園駅西口のすぐ前を通り、電車の線路沿いの狭い道を南に進みます。駅のホームが切れて少し行きますと左手に風格のある山門が見えてきます。
 瑞泉寺の山門です。この門は昔犬山城にあった内田門ですが、明治維新のとき、民間に払い下げられ、ここに移築されたものです。
 山門の手前に楠の古木が数本。この緑の下の坂道を登り、山門を潜ると瑞泉寺境内です。
 今から六百年程昔に創建された臨済宗妙心寺派のお寺で、代々高僧が住職を勤めた、格式のある古刹です。室町時代、本山の妙心寺が将軍義満の怒りに触れて謹慎を命ぜられた時、この瑞泉寺が妙心寺派の本山を勤めたことがあったとはここの老師のお話です。
 鐘楼も古く、確認したことはありませんが、軒の下四隅に見える「見ざる聞かざる言わざる」の猿は左甚五郎の作と聞いたことがあります。
 中腹の道を北へ返りますと瑞泉寺本堂の西あたり、左へ下る階段があります。輝東寺です。
 
ここには犬山焼をここまで有名にした絵工、道平の墓があります。犬山焼と言えば「ああ、あの模様」と誰もが頭に浮かべる、桜花と紅葉を描いた雲錦模様を生み出した人です。
 もとの道に戻って少し行くと、右の斜面を登る階段があります。上には犬山城主成瀬家の墓が西の方、お城を向いて並んでいます。日夜、後世の犬山市民の幸せを見守っていてくれます。
 この辺りからの眺望は一見に値します。お城と伊木山の間に木曽川が光り、はるか遠くには岐阜城が霞んでいます。運が良ければ鶯に出会えます。
 臨渓院を過ぎるとT字路にぶつかります。右に行けばモンキーパークの裏に出る道です。左折すると右手が竜泉院です。
 ここには中川清蔵主の墓があります。唯一犬山城が戦場になったとき、城を守っていて戦死した城主代です。小牧・長久手の戦いの前夜、秀吉方の武将池田常興が織田信雄の支配下にあった犬山城を急襲したのでした。
 瑞泉寺の山の斜面には五つの塔頭が建ち並んでいますが、隆盛を極めた頃には三十近い塔頭が全山を埋めていたと言われます。
 織田信長が犬山城を攻めた永禄八年、全山の寺に火を放ちました。これを見た犬山城主織田信清は城門を開いて甲斐の国に落ちのびて行きました。
 静かな時間を忘れる散歩道です。

瑞泉寺の山門

(20)東之宮古墳へ登る道

 東之宮古墳は成田山の裏山、白山平山の山頂にあります。今日はこの山へ正面から登る道をご案内しましょう。
 サンパーク犬山の西の道をモンキーパークの方へ向かうと、すぐS字形カーブに入り、急に道幅が狭くなります。この道幅の狭くなった所から七〜八十メートル北東へ進むと左側に倉庫のような小さな建物があります。建物の向う側で左折する狭い道に沿って集落の中を行くと山にぶつかります。左の「丸山児童遊園」と書かれた小さな公園が目印です。「成瀬家別邸」は右の奥です。
 山道に掛かるとすぐモノレールの下を潜り、更に登るとモンキーパークの「おとぎ列車」の線路を踏切ります。この日、たまたまトーマス号が緑の森の中から顔を出しました。
 急な東之宮神社の参道を登り切ると本殿の右に「史跡東之宮古墳」の石柱が立っています。
 この古墳は全長七十八メートルと言う大きな前方後方墳(前の部分も後ろの部分も四角形)で、古墳時代前期のものです。
 古墳時代は稲作文化の発展した弥生時代の後を受け、米の生産量も増え、人口も増加して、地域を治めるリーダーが現れるようになります。私はこのリーダーたちを王様と呼びたいのです。
 小さな国家ができたのでしょう。女王卑弥呼の頃、日本では小さな国が相争っていたと中国の「魏志倭人伝」と言う史料にあります。
 古墳にはそのような国のリーダーつまり王様か、その関係者が埋葬されていると考えられます。東之宮古墳には邇波県のリーダー、邇波県主かその関係者が埋葬されていると考えられています。
 発掘調査の結果、この古墳からは貴重な遺品が沢山出てきました。最も有名なものは中国からもたらされた三角縁神獣鏡と言う鏡です。先の卑弥呼が中国の魏と言う国から銅鏡百枚を与えられたと言うのはこれより数十年前のことです。
 古墳から東へ山の尾根づたいに百五十メートル程行った所にお宮があります。お宮の前に立って南の方を眺めると、一面の水田地帯が広がっています。西は名鉄小牧線、東は新郷瀬川、南は五条川に達します。国道四十一号線がほぼ中央を横切っています。
 東之宮古墳に埋葬されていた主はこの水田地帯の開発に力を尽くした人ではないだろうかと想像する人もおります。古墳は古代のロマンが詰まっている玉手箱です。
 邇波県の王様になって、白山平山の山頂に立って見てはいかがでしょう。

白山平山を行くトーマス号