近くの歴史散歩道 文:小田昭午(犬山市)
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(21)東山道の趣 天王坂を歩く
  瑞泉寺山門のすぐ下の狭い道が昔むかしの東山道であろうと前々回書きました。道の両側はすっかり宅地化されてしまいましたが、どことなく東山道の趣を残している道です。
 内田の渡しを渡った旅人は、それぞれの思いを胸にして先を急いだことでしょう。瑞泉寺を過ぎてしばらく行くと天王坂にかかります。昔は鬱蒼とした木立の中だったでしょう。
 左にこんもりした山が近付いて来ます。妙感寺古墳です。東之宮古墳の百五十年程後の古墳です。東之宮古墳に隠れて影が少々薄いのですが、東之宮古墳より大きい古墳です。やはり、主はこの地方を治めていた王様(一般に豪族と言います)でしょう。
 天王坂をほぼ登りきった左、針綱神社の御旅所があります。春の犬山祭の最後、十三両の山車がそれぞれの町内に帰った後、神輿に乗った神様は各町内を練り歩いて御旅所にたどり着きます。ここでの祭礼をもって祭りを終えます。
 少し行くと、郷瀬川に架かる小島橋にでますが、手前を左折すると飛騨街道に入ります。
 直進すると余坂の旧奥村邸の近くにでます。この家は江戸時代、呉服屋を営んでいた商家で、江戸末期の犬山大火の後に建てられたといわれる古い建物です。
 余坂は余坂の木戸の外、つまり城下町の外でしたが、江戸時代には旅人や近隣の買物客で賑わった町でした。旧奥村邸は余坂の賑わいを象徴しているようです。
 「余坂」と言う意味の分からない地名の由来について、地名辞典には「木戸の余りの坂」つまり「城下町からはみ出した坂」と解説しています。しかし、「余坂」と言う地名は城下町のできる前から使われていました。
 私は「夜坂」が転じて「余坂」になった、つまり「夜賑わっていた町」だろうと想像しています。羽黒の「余町」が「夜町」の転化したものと言われているのと同じだと思います。
 小島橋の辺りを通称小島の里と呼び、中世の頃小島一族の里がありました。荵苳酒を四百年も製造し続けてきた和泉屋、小島家もこの地の出身です。また、城下町にある本竜寺と言うお寺も中世の頃にはここにありました。
 城下町のできる前の余坂村小島は尾張平野へ向かう道や飛騨街道への分岐点であり、東山道の要衝であったと考えられます。夜賑わう街があったとしても不思議ではありません。
 東山道はここで左に折れて善師野へ向かいます。


(22)地名「梅坪」「桜坪」の由来をたずねて
 「東之宮古墳のある白山平の山頂に立って南の方を眺めると一面の水田地帯が広がっています」と本シリーズ(20)で書きました。
 今から千三百年程前、日本がようやく国家としての形を整えつつあった頃のお話です。
 大化の改新が目指した改革の最大のものは公地公民でした。農民は国家のものである土地を借り受けて作物を作り、得られた収穫の中から一定の租税を国家に納めると言うものでした。その土地を管理するシステムを条里制と言いました。
 前原台から犬山駅に向かう人の多くは梅坪の跨線橋で広見線を越えていると思います。あの辺りの地名を梅坪と呼びます。近くに蝶坪という所もあります。また、ふなびきクリニックの前に桜坪というバス停があります。あの辺りを桜坪と言います。
最近では殆んど使われなくなりましたが、この他に柳坪・榎坪・深坪・清水坪・一町坪など坪の付く地名が古い地図に出てきます。
この坪は今私たちが使っている坪、すなわち縦、横それぞれ一間の坪とは異なります。なんと、その三千六百倍なのです。縦、横それぞれ六十間、メートル法で百八メートルになります。
 
 

国道41号線から北を望む
   これが当時使われていた坪で、梅坪・桜坪などは坪に付けられた名前です。
犬山の場合、これらの坪が正確に東西方向、南北方向に並んでいました。現代になってほ場整備工事などがありましたので元のままではありませんが、畦道や水路が整然と東西・南北に走っている風景を見ることができます。
新郷瀬川の川堤を歩いて見て下さい。西の方、小牧線の近くまで真直ぐに伸びている水路や農道を見ることができます。また、南北は広見線から五条川に達します。
これが千数百年も昔の人びとが私たちに残してくれた条里制の風景なのです。
新郷瀬川に架かる塔野地橋の約百メートル南に東西に走っている水路があります。この線が三条と四条の境だろうと推定されています。条とは東西に走る帯でその幅は坪六個分、つまり六百四八メートルになります。
清水屋の前の道を西へ下った辺り、北側に東三条・西四条という地名があります。
先程の水路の西の方、田圃の中に水神様の木立が見えます。この水路は新郷瀬川のできる前、入鹿用水の流れていた水路だったと畔の草を刈っていたお年寄りが教えてくれました。

(23)東山道をたずねて 善師野・茗荷を歩く
 余坂から東へ向かった東山道は富岡を経て善師野へ入ります。今回はここ善師野を通っていた東山道を探索して見ましょう。
 木曽街道、善師野の宿は名鉄善師野の駅の西で踏切を越えた北の集落でした。「本シリーズ(8)」ここの地名を伏屋と言います。
 伏屋は布施屋の転じたものと考えられます。布施屋は奈良・平安の頃、街道を行く旅人のために建てられた無料宿泊所でした。行基や最澄の建てた布施屋が有名ですが、その他にも多くの僧が旅人を救うために建てました。善師野の伏屋もその一つでしょう。
 宿のほぼ中央に常夜灯があります。東山道はここで右折し、木曽街道と別れて東へ進みます。
 山の麓、少し高い畑の中の道からは善師野の里が一望できてのどかです。村の人はこの道を村街道と呼んでいます。
 しばらく行くと南から来た道と合流して北へ向かいますが、この辺りを寺洞と言います。
 間もなく熊野神社の正面にぶつかり、道が左右に分かれます。右の道は荷車が一台通れる程の土の道で谷の奥へと進み、上峠の池と言う溜め池で道はなくなります。あと二百メートル程登れば峠の筈ですが、薄暗い藪で道らしい跡は見当たりません。
 しかし、明治二十年、陸軍の陸地測量部によって測量された地図によると、この谷を登る道があり、さらに山を越えて可児市の茗荷に通じています。この道が東山道だと推定されます。
 蛮勇を奮って道無き道を登ってみました。悪戦苦闘していると急に明るくなり、峠の近いことを感じましたが、辿り着いて驚きました。そこはゴルフ場でした。
 ゴルフ場の向こうは茗荷の谷です。愛岐峠を迂回し、菅刈を経由して茗荷に入りました。狭い谷には十数軒の民家が音の無い世界に点在していました。
 ゴルフ場から谷へ下りる道は二本あり、いずれが東山道か確認できませんでした。
 奥の方の道が谷へ下りた近くに薬師庵と言うお寺がありましたが、庵主さんが絶えて今は日本でも有数の笛の名手が住んでいました。
「この谷では笛の音が澄むんです」とここへ移り住んだ訳を話してくれました。
 薬師庵の近くに住む古老は現役時代、今はゴルフ場になってしまった東山道を歩き、善師野駅から名古屋へ通勤していたと語ってくれました。
 甲斐の武田勝頼を攻めた織田信長の大軍もこの谷を下って行ったのでしょう。
 
(24)木ノ下城跡を訪ねる
  新しい年を迎えて、いよいよ城下町とその界隈を歩いてみることにしましょう。
 犬山には犬山城の前に木ノ下城と言う城がありました。犬山図書館の南一帯がその木ノ下城でした。
 市役所の前の県道から愛宕寿司の角を西に入りますと、すぐ右手に愛宕神社があります。まず「木ノ下城跡」の碑が目に入ります。ここが木ノ下城のあった所です。
 神殿のある高さ三メートル程の土盛りの上には櫓が建っていたのではないかと考えられています。この頃の城にはまだ、私たちが想像するような天守閣はなく、二階建て程度の櫓が城の中心でした。櫓は矢倉、文字通り矢などの武器をしまって置く倉でした。二階の望楼からは木曽川の方を見張っていたのでしょう。
 神殿の前には金明水と呼ばれる井戸があります。金明水はおいしい水の代名詞になっていますが、木曽川の伏流水で、水には恵まれた城だったと思います。
 最初、ここに城を築いた人は小口城主(大口町)であった織田広近という人で、この地方の地頭職だったと考えられています。築城は文明元年(西暦1469)と言いますから、応仁の乱の最中、いよいよ戦国時代へ突入と言う頃でした。勢力拡張を計って、拠点を一歩北へ踏み出したものと思われます。
 その後、天文初期(西暦1532年頃)織田信康が城主になります。この人は織田信長の叔父に当たり、信長の父、信秀の尾張統一の事業に協力し、力を尽くした人です。
 この信康が城主になって数年後、木ノ下城を廃して木曽川の河畔に犬山城を築くわけですが、木ノ下城築城から僅か70年足らず後のことです。
 廃城になった木ノ下城の城跡には関ヶ原の戦いの後、愛宕山長泉寺延命院と言うお寺が建てられました。境内には愛宕大権現も一緒に祀られていましたので、明治になって神仏分離令により、神社だけが残されました。それが愛宕神社です。
 境内にはエコアップ活動、巨樹巨木グループの推定した樹齢三百年以上の楠が立っています。この楠は多分、建立当時の延命院の賑わいを知っていることでしょう。
 木ノ下城の城屋敷(城郭と言います)は愛宕神社の南に広がっていたと考えられています。その広さや位置を知ることは困難ですが、次回は江戸時代の絵図や明治の頃、まだ稲置村と呼んでいた頃の地籍図をたよりに歩いてみることにしましょう。

木ノ下城跡の碑

(25)木ノ下城の城屋敷跡を探る
 愛宕神社と犬山図書館の間を犬山城城下町の外堀が東西に走っていました。
 少し窪地になっていますが、堀を連想するものは何もありません。しかし、図書館の西にある犬山印刷の少し南に、西に向かって延びている水路があります。これが外堀の名残です。
 木ノ下城の北の堀も、ほぼこの辺りを通っていたのでしょう。
 市役所の門のすぐ前を狭い道が南北に通っています。明治の地籍図にはこの道に沿って水路が薬師寺の西の門前まで延びています。この水路が木ノ下城の東側の堀の名残ではないかと思われます。
 水路は薬師寺の門前で直角に右に折れ、西に向かいます。水路は県道に当たって、そこで消えていますが、木ノ下城の南の堀の名残ではないかと考えられます。
 そう考えますと木ノ下城の城屋敷は南北約二百メートル、百十間に達し、中世の城としては大きい方に属します。
 薬師寺に立ち寄ってみることにしましょう。
 薬師寺は天平六年(西暦七三四年)行基という高僧が建立したと伝えられる古いお寺です。本尊の薬師如来坐像には、その昔青海原から拾い上げられたという伝説がありますが、平安時代の作で國の重要文化財に指定されています。
 境内には芭蕉の句碑があります。この句碑はもともと、中仙道鵜沼宿の脇本陣を勤めていた坂井家にあったものです

 旅の芭蕉が坂井家に泊まった折、ふぐ汁でもてなした主人の求めに応じて詠んだ一句です。 “ふぐ汁も喰らえば喰せよ菊の酒”
明治になって坂井家は衰え、その後何人かの手を経てここに奉納されたものだそうです。
薬師寺の西門を出て西に向かう道を薬師町通りと呼んでいます。今では県道で分断されていますので、迂回して、薬師町通りを西へ歩くことにしましょう。
丁字路にぶつかったら右折し北へ向かいます。確証はありませんが、この道が城屋敷の西側を南北に走っていた道ではないかと考えられます。そう考えると城屋敷の東西は二百メートル余りとなり、城屋敷はほぼ正方形をしていたことになります。
この当たりから徳授寺界隈にかけての街並みには犬山城の城下町とは異なった風情があります。木ノ下城の城下町とでも呼ぶべきでしょうか。犬山には二つの城下町があるとことを発見する散歩道でもあります。
近くに銀明水があります。

 

(26)徳授寺とその界隈の中世の道  
 徳授寺は先月の歴史散歩道で歩いた木ノ下城跡の南西にあります。
 清水屋の北西にある出来町の交差点を南北に走っている道は稲置街道と言って、犬山城から名古屋城の清水門に至るメインストリートでした。この道を交差点から少し北へ行くと右側に徳授寺への参道があります。入ると朱塗りの山門を潜ります。
 このお寺は文明八年(一四七六)ごろ創建されたと言われているので、木ノ下城築城の数年後になります。戦の時、木ノ下城の南西の守りを担っていたものと思われます。昔の地図を見ますと徳授寺の南側に堀が巡らされているので、その意図が読み取れます。
 中世のころのお寺は戦になった時、最後の砦として利用されることが多かったのです。それはお寺の建物が堅固であると言う理由ばかりではなく、武運つたなく「最早これまで」となった時、切腹の場に相応しいからです。
 さて、この徳授寺には犬山の誇りとする著名な文化人の墓がいくつかあります。
 村瀬太乙の墓が本堂南西の一画にあります。太乙は江戸時代後期、天下に聞こえた儒学者頼山陽に師事し、大きな影響を受けました。自由気ままな町儒者の道を歩いた人ですが、成瀬家学問所の教授を勤めました。
 また、「犬山視聞図絵」と言う絵図、現代風に言えばイラストを多く用いた郷土誌を残した長足庵甫磨や犬山焼の兼松所助の墓があります。
 さらに、犬山の最も詳しい地誌である「犬山里語記」を書いた肥田除風の墓もありましたが、今は内田の竜濟寺に移されています。

 この界隈の古い道を訪ねて見ましょう。参道を出て稲置街道を突っ切りますと小さな社にぶつかって道は二つに分かれます。右の街道を取りますと日本紙工業を過ぎた辺りから坂を下ります。犬山の城下町が乗っている段丘からの下り坂です。犬山高校の南を通って四日市の交差点で木曽川の堤防の道に出ます。堤防の道は巡検街道と言いますが、江戸時代、幕府の役人が諸国を観察して回った道の一つです。
 一方、左の道を取りますとほぼ直角に左に折れ、犬山・江南線の道路にぶつかってその先が分からなくなっています。これが柳街道と言って、清洲に至る中世の道ではないかと思います。別名を織田街道と言います。
 今では出来町交差点の南約百メートルの所から西に入り、段丘を下って、清洲を目指します


 

徳授寺の赤門

(27)北宿から名栗町を歩く
 北宿は木ノ下城(本シリーズ<24>参照)の北、今、御幸町と呼ばれている辺りです。犬山の城下町がまだ形成されていない頃、北宿は濃尾平野東部の重要な宿でした。
 ここから東の方へは善師野を経て山の中を関東へ向かいました。また、北へは内田の渡しで木曽川を渡り、京都を目指しました。
 今日は北宿から西へ歩いてみましょう。図書館の北の道を西へ向かいます。
 少し行くと丁字路にぶつかります。左を見ると道が@状に折れ曲がっています。犬山城の城下町から木の下村へ出る木戸のあった所です。敵の突進を防ぐために、わざと道を折り曲げてあるのです。
 木戸の少し手前を東に向かって水路が走っていますが、これが城下町の外堀の名残です。
 丁字路を右に取り、今度はすぐ左折しますと名栗町に入ります。名栗という地名は「名残り」に由来すると言われますが、昔はここを「辻の切」と呼んだそうです。「辻切り」ではありません。「道の終わり」と言う意味です。まだ寒村だったころ、村の西の「はずれ」だったのでしょう。
 針綱神社は明治十五年、現在の犬山城公園に遷座されるまで、江戸時代を通じて、ここ名栗町にまつられていました。
 「尾張名所図絵」と言う尾張の地誌に描かれた針綱神社を転載して見ました。お祭りの模様について「遠近の群衆言うに及ばず、尾北の壮観にして」と述べています。犬山祭りが華麗な祭礼へと発展してきた歴史と共に歩んできた町です。

  今は通りの北側、民家の庭に「針綱神社 元宮跡」と刻まれた石がひっそりと立っています。
 名栗町を過ぎると、本町筋に出ます。ここにも木戸がありました。城下町を南北に走るメインストリートである本町筋が外町に出る重要な木戸でした。
 犬山の城下町は商人や職人の町を中央に置き、その外側に武家町を配置しました。そしてその城下町全体を堀で囲んだ総構えと言う作りでした。
 その城下町の周囲に八つの木戸がありました。平和な時は開放され、自由に出入りができましたが、一旦緩急ある時には木戸は閉ざされ、厳重に守りを固めました。
 明治維新の前夜、水戸藩の勤王志士、天狗党の一隊が中山道鵜沼の宿を通過した時、犬山ではすべての木戸を閉ざして三日三晩、守りを固めました。町人も手作りの竹槍を持って街角に立ったと言われています。
 下大本町に入り、庚申堂を過ぎると段丘の坂を下ります。


 

名栗町にあった針綱神社
(尾張名所図絵より)

(28)大本町通りは大正の趣
 「歴史に翻弄されたお話」は山ほどありますが、大本町通りはまさにその典型のように思われます。
 下大本町の庚申堂(本シリーズ27参照)を背にして北へ 向かいますと北小学校まで、真直ぐな通りです。大本町通と言います。
大本町と言う町名は、室町時代ここに「大本院」と言う禅寺があったことに由来するそうです。
 この通りには独特の風景と風情があります。同じ高さの軒が連なり、どの家にも二階の窓に手摺があります。落着いた格子戸の奥からは下駄の足音が聞こえてくるようです。
 関が原の戦が終わり江戸幕府が開かれますと、尾張には初代藩主として家康の九男、徳川義直が入ります。その義直の補佐役として来たのが平岩親吉と言う人で犬山城主となります。犬山の城下町を本格的に整備したのはこの人でした。
 今の城下町ができる前は大本町通りが本町通りでした。商人や職人が住んでいましたが、平岩親吉が西の段丘の下に移住させて、ここを武家屋敷の町にしたのです。
 その後二百六十年程の間、この大本町も平和な日々を送るわけですが、明治維新が訪れて大きな衝撃を受けます。
 代々武士の家に与えられていた禄を召し上げられたのです。禄とは今で言えば給料です。お侍さんがリストラにあい、失業してしまったのです。

 お侍さんは職を求めて悪戦苦闘するわけですが、三分の二のお侍さんが犬山を離れることになります。
 その後明治二十四年には濃尾地震に遭い、「街上両側の家屋ことごとく破壊せられ」と当時の記録は壊滅状態になった町の様子を伝えています。この地震を機に、武家屋敷の町大本町は様相を一変したと想像されます。
 明治末期から昭和初期にかけて犬山は商業の町として目覚ましい発展を遂げるのですが、その特色は観光遊興の町としてでした。中心となったのがここ大本町です。
 昭和二年の新愛知新聞(中日新聞の前身)には大阪難波の劇場で“きれいどころ”が犬山音頭の披露をした記事がのっています。
 昭和九年の統計によりますと市内の芸者さん置屋が二十八軒、芸者さんの数が百四十八人に上っています。当時の大本町通りの風景が目に浮かんできます。
 カフェからは「俺は河原の枯れススキ」など、今は知る人も少なくなった歌が流れていたことでしょう。
 間もなく大東亜戦争(米国では太平洋戦争と呼びました)に突入します。


 

犬山音頭、大阪公演を報じた
新愛知新聞(昭和二年)

(29)大本町通りから段丘の坂を下る
  大本町通が北小学校にぶつかる少し手前、西側に常満寺と言うお寺があります。鎌倉時代に建てられたと言われる古いお寺です。その頃から、この辺りには集落があったのでしょう。
  常満寺の山門は決して大きな門とは言えませんが、柱や扉などには長い風雪に耐えた面影を見ることが出来ます。この山門、実は犬山城の松の丸と言う一郭の裏門を移築したものなのです。
 明治六年、明治政府は陸軍などの施設として使用する城を除き、他のすべての城の取り壊しを命じました。崩壊した武士階級の憤懣が巷に満ちていた時でしたので、その象徴である城の取り壊しを急いだのでしょう。
 勿論、犬山城も例外ではありませんでした。櫓や城門などが競売に付されて民間に払い下げられて行きました。犬山城の天守閣はかろうじて難を免れたのですが、そのお話はまた後で触れる機会があるでしょう。
 記録によりますと、この松の丸裏門の買い取られた価格は七十三銭でした。米の価格を基準にして今の価格に換算してみますと八十八万円ほどになります。
 大本町通が北小学校の校門に出くわした所で左折し、坂を下る事にしましょう。この道の北側には道に沿って城郭を囲む空堀と土塁がありました。
 坂を下った所が鵜飼町です。江戸時代、鵜匠など鵜飼に携わる人たちが多く住んでいたのが町名の由来だそうです。
振り返って見ると坂の上は常満寺と隣の専念寺の森です。大本町が南北に長い段丘の上に建っていることが分かります。段丘とはカットの絵のような崖の上が平坦な丘を言います。
 この段丘は犬山城の下流の丸の内緑地公園から大本町の西を南下し、橋爪、羽黒を通り、名古屋空港に達する規模の大きなものです。
このような大きな段丘がどのようにして出来たのでしょう。
 
濃尾平野の下の地盤は現在でも一年間に0.5ミリメートルほど沈下しているそうです。「0.5ミリ?なんだ、それぽっち」と思われるでしょう。
しかし、一万年経つと五メートル沈むことになります。沈下を続ける地盤の上に木曽川の泥流が流れ込んで、濃尾平野が出来上がったのです。沈下する地盤としない地盤の境がこの段丘の崖なのです。
 縄文時代の中頃には伊勢湾の波がこの段丘の麓を洗っていたと考えられています。遠い遠い昔のお話になってしまいました。



 




段 丘





常満寺の山門

(30)犬山の表玄関は犬山湊
 車社会になってしまった現在、想像することも難しくなりましたが、犬山湊が犬山の表玄関だったのはそう遠い昔の話ではありません。
 江戸時代の絵図によりますと今の北小学校の南の道を段丘の下へ下り、木曽川にぶつかったあたりに鵜飼屋の渡しがありました。
 近くには湊へ出入りする船が目印にした常夜灯がありますし、ここから三百メートル程下流には水神社があります。今、湊らしい風景を見つけることはできませんが、この一帯が犬山湊だったのです。
 明治四十二年に発行された「智仁勇」と言う雑誌にのっているの小学生の修学旅行の記事を紹介しましょう。
 犬山城に仕えていた藩士やその子どもたちは、明治になって武士階級がなくなってから「犬山壮年会」と言う会を作って助け合ったり、親睦を計っていました。その会の発行していた雑誌が「智仁勇」です。
 四月二十四日、犬山高等小学校の生徒九十八名犬山湊から船で、奈良・大阪への修学旅行に出発しました。木曽川を下り、北方(現一宮市)で上陸、木曽川駅からは東海道線の乗客となりました。
 奈良、大阪でそれぞれ一泊し、二十六日午後一時に木曽川駅に降りたちました。帰路は木曽川の堤を大きな声で歌を歌いながら歩いて帰ってきたそうです。
 時代を少しさかのぼります。関ヶ原の戦いを挟んで、あっちこっちで大きなお城が建設されたり、改築されました。名古屋城・江戸城・駿府城などです。城下町の建設も進められました。
 これらの建築のために大量の木曽や飛騨の檜が切り出され、木曽川のハイウェイを使って運び出されました。
 八百津には綱場と言って上流から流れてきた丸太を筏に組む作業場がありました。組まれた筏には二人の筏師が乗って、今で言う日本ラインの急流を水しぶきを上げて下って来ました。
 犬山の湊には筏の中継基地がありました。ここでは檜の現物と送り状の照合が行われ、筏は別の筏師に操られて下流へと向かいました。
 上流から筏に乗ってきた筏師は給金を貰って八百津に帰るわけですが、その前に犬山の町でチョット一杯やって、いいご機嫌になって帰って行ったことでしょう。
 木曽檜の最盛期には木曽川の川面は筏で覆われ、他の商品を運ぶ船や渡し船は身動きできない程であったと伝えられております。
 

丸の内緑地から犬山湊跡を見る