近くの歴史散歩道 文:小田昭午(犬山市)
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(31)木曽川の御囲堤と木津用水
   清水屋の前の道を江南に向かって五分程走りますと「高雄羽根西」と言う交差点があります。左手に「名鉄パレ」と言うスーパーマーケットがあります。ここに車を置いて歩くことにしましょう。
 次の「伊勢帰」の交差点を右折し、僅かな登り道を北へ百五十メートル程歩きますと道は平坦になり、更に少し歩くと水路に架かった橋を渡ります。前方に「キクヤ自動車」の看板が見えます。ここが今日の目的地です。
 幅百メートル前後の、幅の広い空堀が右から左へ走っています。堀の底は水田です。部分的に畑もあります。
 右の遠景はこの堀を渡る道路と堀の中に建つ住宅が視線を遮っています。左の方は堀が左へカーブしています。
 堀の両岸には雑然と住宅が建っていて、堀に張り出している家もあります。丸い大きな川原石の石垣が目に付きます。
 実はこの幅百メートル程の空堀のように見える帯状の低地はかつて川の流れていた跡なのです。
 昔、堤防のない頃の木曽川からは何本かの支流が濃尾平野を伊勢湾に向けて南下していました。洪水ともなると自由奔放に流れを変えていたと言われます。暴れ川と言われる由縁です。
 川と川の間に少し高い土地(自然堤防州と言います)に家を建て、低い所を水田にして稲作をしていましたが、農民と水との戦いは絶えることがありませんでした。
 江戸時代に入って、尾張の国を木曽川の水から守る徹底した工事が行われました。木曽川から流れ出ていた支流の口も閉鎖されてしまいました。できた堤を「御囲堤」と言いました。
 御囲堤のお陰で暴れ川は静かになりました。その一本の支流の四百年近く後の姿を、今見ているのです。暴れ川が静かになった反面、かんがい用水が必要になってきました。木津用水はその一本です。
 木津用水は最初四日市と言う交差点の近くで木曽川の水を取っていましたが、洪水の度に取水口が壊されたり、取水量が安定しなかったりしていたので、可動堰を作りました。昭和37年のことです。上はライン大橋です。
 さて、「伊勢帰」の交差点に帰りましょう。「伊勢帰」とは何か意味ありげな地名です。
 昔の人は今見てきた支流に舟を浮かべて、お伊勢参りの旅に出かけたと言う話を聞きました。ここにはお伊勢参りの舟の舟着き場があったのでしょう。



犬山扇状地の旧河道と低湿地
(犬山市史より)

(32)
永久の乱と舞台となった木曽川
  今、木曽川の川面にはたくさんの水鳥が遊んでいます。木津の河川敷にある「木曽川犬山緑地」から川沿いの散歩道を下流に歩いて見ることにしましょう。広々とした木曽川には太陽がいっぱいです。
 今日は、今からおよそ八百年前北条義時率いる鎌倉幕府軍と後鳥羽上皇を総帥とする京都朝廷軍とが、眼前に広がる木曽川を舞台にして闘った承久の乱のお話をしましょう。
源 頼朝亡き後、鎌倉幕府は北条氏が権力を握ることになります。朝廷による政治を取り戻そうと考える後鳥羽上皇と鎌倉幕府との間は次第に険悪になって行きます。
 承久3年(西暦1221年)5月、遂に上皇は「流鏑馬」にかこつけて諸国の兵を集め、幕府を倒す計画を練ります。そして倒幕の院宣が下るわけですが、これに対し幕府側も大軍を集めて反撃にでます。
 「吾妻鏡」と言う鎌倉幕府の歴史を書いた史料によりますと、幕府軍は19万余騎の大軍を三道に分けて鎌倉を出発します。東海道を十万余騎、東山道を五万余騎、北陸道を四万余騎。信じられないほどの大軍です。一方、朝廷軍もこれを木曽川の線で迎え撃つべく、軍を東へ進めます。
双方の大軍が尾張北部のこの地で木曽川を挟んで、左岸に幕府軍、右岸に朝廷軍が対峙しました。上流は大井戸の渡しから下流へ鵜沼の渡し・板橋・池瀬・摩免戸と展開し、州俣に至りました。
 大井戸の渡しは国道41号線が木曽川を渡る中農大橋の少し上流です。鵜沼の渡しは犬山橋の少し下流と考えられ、板橋はよく分かりませんがライン大橋の下流ではないでしょうか。池瀬は伊木ヶ瀬でしょうから大伊木、尾張側で言えば山那でしょう。摩免戸は今の前渡で、尾張側は草井です。
 この戦は朝廷軍の惨敗に終わり後鳥羽上皇は隠岐に流されることになります。一方、鎌倉幕府の力は磐石になり、以後日本の社会は武家政治の時代に入ってゆきます。
この戦、「永久の乱」がその後の日本の歴史を決定付けたのでした。そんな大きな戦いが私たちの住んでいるこの地で行われていたのです。
 木曽川左岸の散歩道を下っていきますと対岸、伊木山の少し下流に木立に覆われた小さい山が見えます。前渡のお不動さんです。
この山の中腹にこの戦で戦死した武士の五輪塔が60基ほど並んでいます。「この山の麓にはまだ、多くの五輪塔が埋っている」とお不動さんの住職に聞きました。 



永久の乱戦没者の五輪塔群

(33) 四百年の香りを放つ忍冬酒
 城下町、本町筋の一本東の通り、練屋町を歩いていますと「忍冬酒」と言う看板が目に入ります。
 間口が六十メートル程あるでしょうか。江戸時代に建てられた大きな風格のある町屋で、このたび、国の文化財建造物として登録されることになりました。通りに面した築地塀越しに手入れの行き届いた名木古木が見えます。
 ここが四百年余りの歴史を持つ忍冬酒の醸造元、和泉屋小島家の屋敷です。
 忍冬酒は「すいかずら」の花のエキスを抽出したリキュウルです。
 忍冬酒伝来の秘話を紹介しましょう。小島家二代目の弥次左衛門は朝鮮出兵の秀吉軍に従軍しました。戦争中、捕虜を助けたところ、男はそのご恩返しに弥次左衛門に「すいかずら」を用いたお酒の製法を伝えました。これが小島家伝来の忍冬酒の始まりと伝えられています。
 慶長二年(1597)の創業以来四百年余、連綿として今もこのお酒を造り続けているのです。
 元和五年(1619)沢庵和尚が犬山にお出でになったとき、忍冬酒を讃えた歌が小島家に残っています。
     冬を忍ぶ
      酒の名も良し 寒さ経て
     咲き出む梅を 人になぞえて

忍冬酒本舗の店先
 この忍冬酒は五代将軍綱吉以降代々将軍家へ寒中見舞いとして献上されていたそうです。
 また、江戸時代には朝鮮通信使と呼ばれた外交使節団の来日が賑やかでした。この使節団は五百人前後と言う大規模なもので、朝鮮を代表する各界の一級の文化人で構成されていました。この朝鮮通信使の接待に忍冬酒が大いに活躍したのです。朝鮮伝来の手法によるこのお酒が通信使の絶賛を博したと言われています。
 犬山里語記と言う歴史書に江戸時代の爛熟期、文化・文政の頃の城下町の有力な商人・職人の名前と職業がのっています。なんと32人中8人が酒造業です。
 犬山がお酒の名産地であったことがわかります。金明水・銀明水の名が示すように犬山の水が良かったことにも拠るのでしょう。ただ、今日まで続いているのは忍冬酒だけになってしまいました。
 今から九千年前、中国の新石器時代の人たちがお酒を飲んでいたと考えられる遺跡が発掘されました。食糧も充分でない時代に人類はお酒を造っていたのです。お酒は人類にとって、何か特別な意味のある飲み物だったのでしょうか。
 忍冬酒をグラスに注ぐ時、あたりはそこはかとなく甘い「すいかずら」の花の香りに包まれます。
 
(34)   俳聖、内藤丈草の座禅石

 犬山駅西の交差点を北に向かい、次の交差点で左折すると、その先が寺内町です。浄土真宗の四つのお寺が築地塀に囲まれたこの界隈は気品があって、城下町らしい雰囲気を漂わせています。
 その一画、西蓮寺の本堂の前に丈草が座禅を組んだと言われる石があります。この座禅石は内藤家の庭にあったものだそうです。丈草は二十歳前後の頃、先聖寺の玉堂和尚を師として、座禅を組む毎日でした。
 練屋町を北へ歩きますと忍冬酒の小島邸の前を通り、宮田眼科を過ぎると下り坂になります。この坂を瓦坂と呼び、昔は坂の中ほどに木戸がありました。静かな風情のある坂道です。
 丈草の生家は坂の右手の台地にありました。この一帯は武家屋敷でした。父、源左衛門本守は成瀬家に仕え、百五十石と言う高い家禄を貰っていました。早く母を亡くした丈草は継母に育てられました。
 丈草九歳の頃のこと、風流な人たちが寄って月見に興じていた席で「小児発句せよ」、現代風に言えば「坊や、一句作って見な」と言われ、即座に
  発句して笑われにけり今日の月       と返したと言う話が残っています。

内藤丈草の座禅石

 丈草十四歳の春、出仕して西の谷御殿にいた直竜と言う人の介護を命ぜられます。直竜は先代城主成瀬正虎の愛妾だった伯母の子で、狂疾を患っていたと言われています。武士丈草のあまりにも悲しい門出でした。
 暗い環境に加え、病弱だった丈草は二十七歳の時、家督を義弟に譲り浮世を捨てて、京都にいた芭蕉の門を叩きました。
 丈草の句をみた芭蕉は「この人は、人の上に立つに1ヶ月を要すまい」と褒め称えたと言われています。
 元禄四年、芭蕉最高の撰集「猿蓑」が出版されました。其角がその序に筆を取り、後書きを書いたのは入門してまだ日の浅い我が丈草でした。
 元禄七年、死の病床にあった芭蕉を慰めようとした丈草の句
  うずくまる薬の下の寒さかな
に芭蕉は「いつ聞いても寂が整っている。面白し面白し」と激賞しました。丈草は芭蕉の「さび」「わび」を継承した第一人者でした。
 犬山城、本丸門の前、左手に句碑が立っています。
  涼しさを見せてや動く城の松
晩年、犬山に立ち寄った丈草の句です。
元禄十七年、近江の国竜ヶ岡で四十三歳の生涯を終えました。東海道線膳所駅の近く、国道一号線の傍らに「竜ヶ岡俳人墓地」の碑があります。そこに丈草は眠っています。

(35) 余坂の木戸跡から魚屋町を歩く
 余坂の信号から城下町に入ろうとすると道が@状に曲がっています。余坂の木戸のあった所です。
 木戸を入ると魚屋町です。町名になるほど魚屋さんがあったとも思えないのに魚屋町です。
 町内の案内板には「木曽川を筏で下ってきて犬山城の赤岩に着いた人たちがここで魚の商いを始めたのが町名の由来」とあります。木曽川上流のどの辺りから来た人たちでしょうね。
 関ヶ原の戦いの前、犬山城主だった石川光吉は家康から木曽川上流の金山城(可児市兼山町)を貰いました。そこで、この城を解体し筏に組んで運んできて犬山城を改築しました。
  当時、金山城城下町には塩や海魚の専売市場を許可された魚屋町がありました。この魚屋町の人々がお城と共に筏に乗って犬山にやって来たのではないでしょうか。

米 清 旧 宅
  この通りが本町筋にぶつかる少し手前、左手に古い町屋が目に入ります。この度、建造物文化財に登録された米清旧宅の母屋と蔵で、江戸末期から明治・大正にかけて活躍した犬山商人の屋敷跡です。
 江戸時代の末頃からこの辺りの米を一手に買い集め、桑名を経由して千石船で江戸へ運んだ豪商でした。米清は屋号で、代々小川清六を襲名していたとのことです。
江戸時代武士の給料は録と言い、貨幣ではなくお米で支給されていました。したがって、塩・薪・着物など日常の生活必需品を買うためには商人を通して米を売らなければなりません。江戸時代、犬山城に仕える武士はおよそ五百人でしたが家族や使用人を合わせると一大消費集団でした。
 また城主も領内を治めるために、集めた年貢米を売って貨幣に替える必要がありました。
 犬山里語記という史料によりますと江戸時代後期、城下町には麦会所と言って米・雑穀・綿などの売買取引所がありました。株を持った数人の商人が共同で経営し、城主に一定の運上金(税のようなもの)を納め、独占的な営業を認めて貰っていました。
 この麦会所は城主の年貢米も扱うようになり、取引の多い日には米三万二千石にもなったと俄かには信じられないような記録が残っています。
 その後どうしたわけか麦会所は営業停止になっています。米の流通システムはその後も色々と姿を変えたのでしょうが、武士と商人とはお米を介して深い関わり合いを持って明治になります。
 このようにして、犬山が交通の要衝であったことも相まって犬山には多くの豪商が育ちました。
(36)  高札場に群がった明治初期の人々
 今日は本町筋を歩いて見ることにしましょう。城下町の伝統的な風景を見ることは最早無理な注文になってしまいましたが、それでも木造二階建ての町屋が続いていて昔の風情を残している所があります。格子戸の並んでいる風景も郷愁を誘います。
 中本町の高木邸は古い町屋の一つで、表の格子戸がご自慢の無双窓です。無双窓というのは格子を二枚重ね、表側の格子は固定し内側の格子をスライドできるように作ってあります。内側の格子をスライドさせて表側の格子の眼を閉じると雨戸に早変わりする珍しい格子戸です。
 格子戸の登場は比較的新しいことで、明治維新の前夜尊皇攘夷派と佐幕派(幕府擁護派)とが激しく争った騒乱の京都で考案されたものだそうです。乱暴狼藉者の侵入を防ぐための工夫だったのですね。その後京都から全国へ普及して行きました。
 ここから北上すると魚屋町筋がこの通りにぶつかる丁字路があります。その北東の角に「高札場跡」と刻まれた標識が立っています。
 室町時代から江戸時代にかけて、掟や禁止事項などお上が庶民に伝えたいことを張り出す掲示板のあったところです。「お触れ」と言いました。ここが城下町の中でも最も人の集まるところだったのでしょう。高札場は明治になってからもしばらくは使われていたようです。

高札場の様子(「日本国語大辞典」から)
 お触れと言えばキリシタンを禁止し取り締まった頃は頻繁に張り出されたようです。
 お触れの内容からその時代の庶民の生活を垣間見ることができます。明治になって近代化に翻弄される庶民が見えてくるお触れを少し紹介してみましょう。
・ 暑中たりとも裸体で市中や街道など往来致す事相成らず。
・ 湯屋渡世(銭湯家業)の者、男女入込み(混浴)はあいならざる旨先般布告いたしたるに今もって男女の境界相建てざる者あり。(中略)以後容赦なく厳罰に致す。
・ 市中を大小便持ち運びの者ども、桶の蓋致し持ち運びたるよう致すべきなり。
以上三つの例は明治五年・六年に愛知県権令(知事)から出されたお触れです。がむしゃらに近代化・西欧化を進めた明治政府の焦りにも似たものを感じます。
 平穏な日々を送っていた町人たちは高札場の前に群がって急激な変革にただただ狼狽していたのではないでしょうか。
 そして城下町は明治二十四年、濃尾地震によって打撃を受けます
(本シリーズ28参照)
 (37)小牧山に戦の跡を訪ねる
 小牧警察署の西、通り一本はさんで小牧山公園の駐車場があります。ここから155号線沿いの小道を西へ二百メートル程歩くと小牧山城の搦め手口(裏口)です。
 搦め手口を入ってすぐ左に折れると昼なお暗い木陰の道になります。左側には土塁が走っています。笹などに覆われた高さ三メートルほどの土塁が外側の155号線沿いの喧騒を遮ってくれます。
 搦め手口から二百メートルほど東へ進んだ所で土塁の断面を見ることができます。土塁の外側に堀を掘り、その土を固めて土塁を築いたことが解ります。
 織田信長が本能寺の変で討ち死にした後、後継者争いがおきます。信長の次男信雄とそれに味方した家康の連合軍が秀吉とこの地で戦ったのです。秀吉は楽田城に本拠を構え、信雄・家康連合軍はここ小牧城に本陣を置いて対峙しました。小牧・長久手の戦いと言います。今見ている土塁は其の時、家康が秀吉軍の攻撃に備えて築いたものだったのです。
 小牧山の東の裾、土塁で囲まれた平坦な細長い一郭があります。帯曲輪と呼ばれています。この戦の時、兵がキャンプした所です。

小牧山城、東の虎口
  この帯曲輪の一画に信長時代の井戸が見付かっています。実は、小牧・長久手の戦いの二十年ほど前、信長がここに城を築いていたのです。
 尾張の国をほぼ支配した信長はいよいよ美濃を攻めるため、それまでの本拠地、清洲からここに城を移したのでした。
 信長の築いた小牧山城は単なる要塞ではなく、経済的にも配慮した城下町を備えていました。信長の小牧山城は攻めのための城だったのです。
 土塁に沿って更に東へ進みますと土塁の切れ目があります。「虎口」と言って城の出入口です。出入口は敵に狙われ易いので、通路の幅を狭くし、@状の構造にしたりして攻め難くしてあります。
 東の虎口は中でも最も堅く、虎口の中に堀の水を引き入れていました。城から出る時には舟でも使ったのでしょうか。家康には城から打って出る作戦などなかったのです。
 家康が如何に秀吉を恐れていたか。また家康の守りに掛けた執念を見る思いがします。
 東の虎口の外側には後に堀を利用して作った灌漑用水が流れています。堀と土塁、土塁に築かれた虎口を一望できるこの辺りの風景はまさに「兵士どもが夢の跡」を見る思いです。
 山頂へは木陰に恵まれた道が何本かあり、夏でも多くの人が散歩しています。
(38)犬山城へ移築した金山城の址に登る
  金山城と言うより「森欄丸の城」と言った方が分かり易いかも知れません。今日は犬山城と深い関係にあるその金山城の址に登って見ることにしましょう。
 金山城は木曽川をここから十五キロ余りさかのぼった木曽川左岸の山の上にありました。
 国道二十一号線旧道の上恵土の交差点を左折すると、五分程で兼山の町に入ります。木曽川と山に挟まれた細長い静かな町です。
 町のほぼ中央に歴史民俗資料館がありますので、ここで町の案内図を貰うことにしましょう。
 この資料館は建物それ自体が文化財です。この建物は明治十八年、木曽川へ下る急斜面に建てられた小学校です。懸け造りと言って表は二階建てなのですが裏から見ると三階建てです。
 案内図に従い大手道を登ることにします。資料館から天守台(本丸)まで約一キロなので元気な人には手ごろな散策コースです。
「古城山登山口」の標識で自動車道と分かれると檜の森に入ります。むらさきしきぶの実が色どりをそえていました。

 少し明るくなると「出丸」址です。出丸は城の本丸から独立し、本丸を守る要塞なのです。南面に高さ3〜4メートルの石垣が残っていました。山から堀り出した石を加工することなくそのまま積んであり、最も初期の石垣です。古い城であることを物語っています。
 眼下をできたばかりの東海環状線が走っていました。天気の良い日には尾張冨士が見えるそうです。
 三の丸・二の丸を経、大手門の址を過ぎると金山城の本丸です。本丸の奥の方にもお宮がありますが、この位置に天守閣が建っていました。石垣や基礎石が残っていますので天守閣のおおよその大きさを想像することができます。
 この城は戦国時代、美濃の国を支配していた斎藤道三の甥の斎藤正義と言う勇猛な武将の建てた城で、大変堅固な城でした。
 実は犬山城の天守閣の一階、二階の部分は最初ここに建っていたのです。関が原の戦いの前、犬山城主だった石川光吉が家康の指示でここにあった金山城を解体し木曽川を筏に組んで運び、犬山城を改築したのでした。
 北西の方、本丸から下を覗き込むと濃い緑の木立に守られて木曽川がとうとうと流れています。
 城がなくなってからこの町は商業の町として栄えます。帰り道、ぜひ兼山湊に立ち寄って見てください。この湊がこの地方の物流基地として活躍したのです。船着場へ下る石畳や灯台など昔を語る風景に出会えます。

(39)江戸時代の面影を残す太田宿
 今日は喧噪な現代から置き忘れられたような町並み、太田宿を歩きましょう。なにしろ、地酒の量り売りに出会うことができます。
中濃大橋を渡った西に太田小学校があります。ここに江戸時代、代官所がありました。この代官所は鵜沼から中津川までの中山道と木曽川沿いの尾張藩領、五万六千石余りを管理していました。
 明治の文豪坪内逍遥はこの代官所の役人だった平之進の子として生まれました。逍遥は近くの虚空蔵堂でよく遊んだそうです。
虚空蔵堂の前の道標に「是より左京道」とあります。ここが太田宿の西の入口です。
 四十一号線の下を潜って川上へ歩きますと道は左に直角に折れ、しばらく行くと今度は右に曲がります。余坂の木戸の道と同類で敵の侵入を防ぐ為の工夫です。枡形と言います。
 二百メートル程進むと左手に太田宿本陣の表門があります。本陣は参勤交代の大名や公家など身分の高い人の宿泊施設でした。
騒乱の幕末、水戸藩の勤皇の志士、天狗堂「本シリーズ(27)参照」のリーダー武田耕雲斎が泊まっています。この時犬山ではすべての木戸を閉ざし、三日三晩の厳戒体勢を敷きました。耕雲斎が本陣を勤めていた福田家へ贈った兜が今でも残っているそうです。
 本陣の少し先、右側にいかにも江戸時代の風情を備えた門構えの脇本陣が建っています。連子造りの窓、屋根には「うだつ」が上がっています。国の重要文化財に指定されています。
 「板垣死すとも自由は死せず」
は自由民主権運動の旗手、板垣退助が明治十五年岐阜で暴漢に襲われた時の言葉ですが、彼はその前夜この脇本陣で一泊しています。
 本陣・脇本陣を挟んで、旅人に馬や籠を手配する問屋・旅籠・それに遊郭などが並んでいて賑やかだった様子が目に浮かびます。
 中山道は江戸時代から、明治になって東海道線を蒸気機関車が走るようになるまで、多くの人たちが江戸や京都の文化を背負って行き来した幹線道路でした。
 東の枡形の近くに祐泉寺と言う五百年程の歴史を持つ古いお寺があります。この辺りが古い中山道の東の入口でした。いつの頃からか町並みは東へ伸び、神明堂と言う交差点近くに達しました。
 この辺りから川原へ下りた所に太田の渡しがありました。対岸は木曽川によって削られた段丘が鬱蒼とした木立に覆われています。船着場跡から暗い木立の中を登って行くのが中山道です。江戸はまだまだ遠くです。


太田宿本陣の表門

(40)岩屋観音に参り猿啄城に登る
 今日は栗栖の対岸、中山道最大の難所と言われた岩屋観音坂と織田信長、美濃攻めの突破口であった猿啄城へ登ることにしましょう。
 鵜沼から21号線を東に向かいしばらく走りますと関へ向かう345号線の標識が前方にでます。その交差点の手前百メートル程の左手に「岩屋観音駐車場」があります。
 「日本歴史街道、中山道」の案内に従い、崖に沿った道を登ると崖の中腹に岩屋観音堂があります。
大きな岩山にあけられた奥行き十メートル程の横穴の奥に観音さまは鎮座ましまし、旅人の安全を祈り続けておられます。
見上げると岩山が頭上に覆い被さり、その岩山には崩落防止の金網が荒々しく懸けられています。
 一方、眼下の木曽川に目をやりますと、激流は足の下で白い歯を剥き出しています。背筋の寒くなるような風景です。
 徳川家康は江戸幕府を開くにあたり五つの街道を制定します。中山道はその一つですが、家康の決めた通りには人は通れませんでした。今、岩屋観音のあるこの断崖絶壁が通れなかったからです。
 西の方から来た旅人はこの断崖絶壁を避けるため内田の渡しで犬山へ入り、善師野を経て御嵩へ向かいました。この垂直に近い岩盤に道を付けるのに約50年の歳月を要したのです。

 先を急ぎます。21号線を更に東に向かい、二つ目の信号「勝山」で左折します。高山線を踏み切ると「猿啄城登山道は左折」の小さな立札が立っています。後は、道なりに進みますと駐車場があります。頂上までの所要時間はゆっくり歩いて四十五分ほどでしょうか。
 
 頂上には展望台もあって眼下に展開する木曽川は絶景です。空から眺める「日本ライン」です。今、肝を冷やしてきた岩屋観音坂は足下です。
織田信長は犬山城を落とすとただちに美濃攻めに掛かります。丹羽長秀を総大将とし、先ず猿啄城の攻撃を命じました。
 丹羽長秀率いる数千の軍は栗栖の最北端「渡洞」で木曽川を渡りました。昔、栗栖の渡しのあったところです。
岩を食むような急流でしたので岩に綱を懸け、その綱を頼りに渡河したと史料にあります。
その時、猿啄城は多治見修理が守っていましたが、先陣を切って駆け登った河尻鎮吉によって落とされてしまいました。
 信長は「幸先よし」と猿啄城を勝山城と改め、功のあった河尻鎮吉を勝山城主にしました。
幸先良いスタートを切った信長は次の目標、堂洞城へと進みました。


猿啄城から見た日本ライン