車山のある街 犬山市

大鳥居の前で次々に繰り広げられるからくり。
舞い散る桜の花びらは、
からくり人形たちへの称賛の紙吹雪に違いない。

木曽川の水面に映る美しい姿から、李白の詩に謳われた白帝城にもたとえられる犬山城。
17世紀初頭から現在まで、代々成瀬家が城主を務め、昭和10年には、国宝に指定されている。
その犬山城の麓にある針綱神社で、13輌の車山が繰り出して行われるのが犬山祭だ。
ここ犬山では、「車山」とかいて「やま」と読む。
そびえ立つようなその高さは、まさに「動くやま」。上山で妙技を披露するからくり人形と、
力自慢の若者や金襦袢で着飾った子どもたちが主役の、勇壮で豪華絢爛な祭が、城下町に春を呼び込む。
城塞都市・犬山  早春の陽光に誘われて、木曽川のほとりへと足を延ばす。ここ犬山は、いわずとしれた城下町。
江戸時代には、木曽川を挟んで美濃と尾張をつなぐ交通の要所でもあった。
当時は、町屋も含めた城下町全体が外堀で囲まれており、日本では珍しい城塞都市を形成。
外堀の外へと通じる道は、敵の侵入を防ぐために直角に折れ曲がった見通しの悪い桝形をたどり、
そのすべてに門が設けられていた。
 こうした町並みの基礎は、関が原の戦い前後に形成されたといわれ、
木曽川を背にした城郭の南側に広がる平野では、武士や町人の身分ごとに、ほぼ長方形の町割りが行われた。
商家が集められていた本町通り界隈には、いまも当時の面影を残す街並みが散見される。
 練屋町の荵苳酒本本舗もそのひとつ。創業は慶長2年(1597年)。
ウイスキーに甘味を加えたような荵苳酒(スイカズラの酒)は、江戸時代から犬山の名産として知られいた。
かの沢庵禅師も「めでたきものは荵苳酒なり」としたためだとか。
スイカズラは普通、忍冬と書くが、冬でも枯れないところから、「草かんむり」をつけたのだという。
門外不出の製法で醸造されたそれは、香り高く、寒中見舞いとして諸大名に献上されたほか、
江戸や名古屋へも出荷されていたという。高々と掲げられた唐破風屋根の庵看板が往時を偲ばせる。
 500メートルほど東では、江戸時代の呉服商、奥村氏の屋敷がレストランとして活用されている。
登録有形文化財の主屋と土蔵は、天保13年(1842年)の犬山大火の直後に再建されたもので、
2階には茶席もしつらえられ、隆盛を極めた商家の豊な暮らしぶりをうかがわせる。
また、庭には織田信長が喉を潤したと伝えられる銀名水という井戸も残っている。
車山を担ぎ上げる 
力と力の競演
 この歴史ある古都に春を告げるのが、犬山祭である。寛永12年(1635年)、
犬山城の麓に鎮座する針綱神社の祭礼として始まり、その後、
尾張徳川家の付家老で犬山城主だった成瀬正虎の奨励により、
城下のすべての町村が祭礼に参加することになり、19世紀前半には、
13町すべてが車山を曳いていた。それから170年あまり、犬山では、
13輌すべて針綱神社の前でからくりを奉納しつづけてきたのである。
 尾張地方に伝わる車山文化において犬山の車山は、形態としては「犬山型」に分類することができる。
寄木四輪で唐破風の屋根を4本柱で支えており、名古屋の城下町で発進した「名古屋型」と呼ばれる形態の
車山とよく似た構造だが、名古屋が2層であるのに対し、犬山ではすべての車山が3層である。
 上山のからくりにも名古屋の影響を色濃く受けており、名古屋城下のからくり人形師、
蔦屋藤吉や文吉離三、玉屋庄兵衛などが実際にからくりの製作にあたっている。
なかでも魚屋町の眞先という車山の乱杭渡りの仕掛けは、「日本に現存する唯一のもの」という説も精巧なものだ。
 祭の見どころは、車山を曳く手子たちの力と技にあるといえるだろう。そのひとつ、「車切」は、
巡業中の車山の動きを止めることなく一気に角を曲がっていくという失敗の許されない大技で、
直径1メートル以上もある木の輪が、アスファルトに白い爪痕を刻みながら、大きな音を立てて方向転換をする。
また、針綱神社の大鳥居の前では「どんでん」と呼ばれる力技が待っている。
13輌の車山が順番に大鳥居の前でからくりを奉納すると、次の巡業に向け方向転換をするのだが、
この時25人ほどの手子が後方の梶棒に集まり、高さ、約9メートル、重さ数トンともいわれる車山を担ぎ上げ、
180度回転し、さらに担ぎ上げたままの状態で後方へ曳くのである。
町ごとに、どれだけ長く担ぎ上げていられるかを競いあっており、犬山祭の力強さの原点でもある。
祭り装束も
ひときわに華やかに
 犬山祭のもうひとつの顔は、車山の一番下の下山で小太鼓を演奏する子どもたちである。
その装束は、緋縮緬に金銀の刺繍という豪華な金襦袢で、背中には、差し込みと呼ばれる立体的な龍の飾り物がつけられている。
車山の巡業が終わると、金襦袢を着た下山子供連は、一人ひとりに手子に肩車をされて家に送り届けられる習わしである。
 こうした祭り装束の返還は、平成12年にオープンした「どんでん館」で間近に見ることができる。
また、このどんでん館のほかに犬山市文化史料館でも車山が1輌展示されている。車山の足元にたち、
下山、中山、上山と見上げていくと、その威風堂々としたたたずまいに圧倒される。
 文化史料館の正面には、からくり人形をテーマにした「からくり展示館」がある。車山のからくり人形だけでなく、
「茶運び人形」の操作実演や、特設工房での9代玉屋庄兵衛によるからくり細工の実演も行われている。
犬山の人々のからくりい対する思い入れが伝わってくるような展示である。
夕日に輝く白帝城  からくり展示館から南へ向かうと、敬道館跡という石碑が建っていた。
敬道館とは、江戸末期の犬山城主・成瀬正住が、文武を奨励するために設置した藩校のこと。
入学できるのは、手代挌以上の者の子弟のうち8歳から15歳までの者で、入学金や謝礼は一切取らず、
経費はすべて成瀬家が支出していた。藩政改革の必要性を感じていた正住は、犬山焼の発展にも尽力するなど、
今日の犬山の繁栄の基礎を築いた人物ともいえよう。
 現在、犬山焼の窯元がある北西に、織田信長や豊臣秀吉の残した朱印状を寺宝に持つ古刹があると聞き、足を延ばした。
室町時代初期に建立された瑞泉寺がそれで、犬山城主の成瀬家が代々仕えた尾張徳川家もこの寺を庇護。
山門は犬山城の内田御門を移築したものである。
 チリひとつの乱れもない清謐な境内から夕日の傾く方角へと目をやれば、
オレンジ色に輝く白帝城が現代の城下町を見下ろしていた。
【出典:中小企業共済 まごころ愛知】

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